死生観 - 1

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あけましておめでとうございます。
久しぶりに4日間も(?) 家族とともに過ごすことができました。
そこで感じたことを少し書き残してみたいと思います。


例年のごとく元旦からの3日間は、
家族4人(私、嫁さん、娘、息子)で
実家、墓参り、嫁さんと私の親戚に挨拶回りに行く。
さらに今年は娘が大学受験なので、湯島天神に合格祈願に行った。
全て車で移動したため、車中で家族といろいろな話しをすることができた。
なにせ、車は密室空間なので、
親父が興味のない話をしても逃げられず(苦笑)
最後まで話しを聞かざるを得ない。
子供たちの将来のこと。
子供たちに望むこと。
父親として今、考えていること。
などなど、珍しく(?) 長く話しをすることができたと思う。
子供たちにとっては、迷惑だったかもしれないが…。
なかでも、めったにできない話しを
深くすることができた。
どんな話しかと言うと…
「死生観」
についての話しである。
私にとって語りきれない深いテーマだが、
以前から少しずつではあるが触れていたことでもある。
ちょうど親戚の方々と会うタイミングもあったので、
そのことをエピソードとして、
ここぞとばかりに家族に伝えてみた。
エピソードとは…
義理の兄のことである。
私の10才年上の尊敬する兄(以下A氏)。
でも、A氏のことを昔から尊敬していたわけではない。
それどころか、以前は軽蔑していた。
角度45度のメガネをかけていて、
(不良、チンピラと言われる人は昔こんなメガネをかけていたと思う)
ケンカっぱやく、母親にすら暴力を奮っていたほど。
そんなA氏は、
若い頃からある商売をやっていて、
当時はめっぽう羽振りが良く、多くのブランド品を身に付けていた。
だが、バブル崩壊後、
商売が行き詰まり破綻してしまった。
その時の私の感情を一言で言うと
「ざまぁ見ろ。」
「商売なんて、そんな甘くないんだよ!!」
であった。
A氏は、その後、食べていくために
仕方なくタクシーの運転手を始める。
それから1年後くらいだったと思うが、
A氏にとって、人生最悪の事態を招くこととなる。
「舌癌」。
暴飲、暴食、たばこの吸いすぎが原因らしい。
この時の感情は、さすがに
「ざまぁ見ろ」とは思わなかったが、
「かわいそうに」とも思わなかった。
しいて言えば
「自業自得」と言ったところ。
A氏は、入院し、手術をするわけだが、
その手術は想像を絶するものだったようだ。
舌の半分以上を切り取り、
舌の代替として自分の腿、お尻の肉を充てるというもの。
手術後しばらくして、お見舞いに行った時のことを
今でも覚えている。
しゃべることはおろか、
口がうまく閉まらないので、
よだれが止まらない状態。
この時、私ははじめて
「かわいそうに…」と思えた。
その後、数ヶ月を過ぎ、やっと退院することとなるが、
しばらくは仕事にならない。
A氏は、今も独身。
その時は40代半ばだったと思うが、
最も献身的に尽くしてくれたのは、
紛れもなく母親である。
今まで威張り散らしていたA氏にとって、
本当に惨めで、孤独で、苦しかったに違いない。
今は、普通に話すこともでき元気に
タクシーの運転手を続けている。
この献身的にしてくれたA氏の母親(私にとっての義母)は、
現在、重度の認知症で特別養護老人ホームで治療を受け、
まもなく1年が経とうとしている。
今、A氏が母親に対しての接し方は、半端じゃない。
治療されている場所まで片道2時間かかるのだが、
仕事がない日は通い続けている。
また、月に何度か自分のアパートに連れて帰り、
一緒に食事をし、一緒に寝、一緒に過ごす。
ちなみに母親は重度の認知症で、
一人でトイレすら行けない、
息子のことすら覚えていない。
A氏がいくら母親のことを思って尽くしても、
母親はそのことをまったく認識できない状態、
いわゆる見返りをまったく期待できない状態である。
おそらくA氏にとって、
見返りを期待するような次元にはいないだろう。
たぶんその次元を超えたところに「感謝の気持ち」
「無償の愛」という私には想像すらできない
世界があるのだろう。
「なんて献身的な姿なのだろうか。」
「はたして、私の親がこのような状態になった時に、
私は同じように献身的になれるだろうか?」
そんな問いかけをしてみるが、
恥ずかしいことだが、言い切ることができない。
昔は45度のメガネをかけ、ケンカっぱやく
母親に暴力を振るっていたA氏と
この正月にお会いした。
その時に感じたこととは、
「なんて静かな人なのだろう」
「とても優しい目をしている」
「まるで仏様のようだ」
そして、
「こんなにも人は変われるものなのだろうか?」
と信じがたい光景であった。
「いったい何がこんなにもA氏を変えたのだろうか?」
死を身近に感じたからなのか?
「死生観」を深く身につけたからか?
私は、死を身近に感じることを経験したことがないので、
よくわからない。
でも、このような話はたびたび聞くことがある。
これが「死生観」を身につけた人の
心の在り方と行動の違いなのかもしれない。
「人生って何だろう?」
「死ぬっていったい何だろう?」
「生きるっていったい何だろう?」
この問いは、私には分からない。
でも、
・死を身近に感じる
・生死を彷徨う
・究極の孤独感に触れる
ことによって、身につけられる価値観なのかもしれない。
さて、
この話しを嫁さん、娘、息子に伝えた。
たぶん車の中でなかったら、
それぞれ自分の部屋に退散するか、
ゲームでも始め無視されたことだろう。
3人にどこまで伝わったかはわからない。
正月早々から、いい迷惑だったかもしれない。
続く↓
http://blog.is-assoc.co.jp/toshi/2008/01/_2.html

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