祖母の49日法要を終えて

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 一昨日は、先月、104歳で亡くなった祖母の

49日法要と納骨のために、浅草の菩提寺にておつとめだった。

 

先月の葬儀だけでなく、実家に御骨がある間に、

何度となく訪れて、亡きおばあちゃんのことを偲んだ。

 

その実家では、10歳から22歳まで、

一緒に過ごし、特に小学生の時は、

将棋、花札を一緒にやってくれた。

 

そんなことをしながら、関東大震災のこと、戦争のことを

たくさん話してくれた。

 

また、その当時、祖父はハンコ屋を営んでいたこともあり、

生活も楽ではなかったので、小学生の頃、

祖母に何度となく言われたことがある。

 

「としゆき。うちは貧乏なので、あなたは大学まで、

 お金のかからない公立に行きなさい。

 そして、将来は、商社マンになりなさい。

 商売人になっちゃだめよ。安定しないから。

 サラリーマンになりなさい。

 商社に勤めると、お給料もたくさんもらえるし、

 安定しているので。

 とにかく毎月お給料を心配なく、もらえることが何よりよ。」

 

たしかに、その頃は、自分の部屋は当然なく、

2畳の納戸のような部屋が、兄貴と2人の子供部屋。

しかも、そこに机が2つ。

奥の押入れが兄貴と2人の2段ベッド替わりだった。

 

そんな厳しい生活でも、その頃は、

私自身は、貧乏だったという認識はなかった。

 

 だが、祖母の言われたとおりに、中学までは義務教育なので、

公立進学は当然だが、高校も公立である都立に進学した。

一応進学校だったので大学も公立を狙っていなくもなかったが、

高校3年の時に、あることがきっかけで、

商売人になることを決意し、大学すらいかなかった。

 

商売人というより、事業家なのかもしれないが、

とにかく早く起業したかったので、22歳で独立するタイミングがあったが、

父親からは大反対をくらい、結局独立したのは28歳の時だった。

(父親の当時の判断はすこぶる正しかったと今でも思う。)

 

いずれにしても、祖母から言われたことは、

高校までしか守れなかった。

 

でも、祖母は、私が起業した後も、いつでも応援してくれた。

 

私自身も商売人であること、

そして今のビジネスに、誇りを持っている。

 

祖母の孫は、私も含めて10人いた。

 

その孫のなかで、最も一緒にいてくれて、最も遊んでくれて、

最も話しをしてくれた。

私は、祖母を一時期、1人占めしていたということになる。

 

祖母は、10年ほど前から、老人ホームに入ることになったが、

晩年はとくに「ありがとう」「私は幸せ者ね」を口癖にしていた。

そして、いつも穏やかだった。

 

104歳生きるって本当に凄いことだ。

自分が生きるということでは、全く想像がつかない。

何しろ、今までの人生をもう一度生きても、追いつかない。

 

自分はここまで長生きできないにしても、

この先、こんな穏やかな過ごし方ができる時がくるのだろうか?

 

仕事を無事に引退したとして、

その後にでも、感謝や幸せを日々感じながら、

過ごすことができるのだろうか?

 

一昨日は、そんなことを考えさせらる1日だった。

 

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